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40年前は何の店だったか思い出せないけどこの角のお店「玉川」の隣がたしか駄菓子屋だった。 ちょっとした子ども向けのおもちゃも置いていてこのあたりの子どもたちの溜まり場的な感じで店名なんて誰も知らなくて通称というか子どもたちが語り継いできた名前があったと思う。もう思い出せないけど。
Wikipediaを読むと長田区の人口は2017年5月で96,871人とのこと。
隣の須磨区や兵庫区に比べてどうも少ない。まぁ、神戸は地震後に西区や垂水区、北区などの周辺に人口が移動したように思うのでそれが原因なのかもしれない。
そしてWikipediaを読んではじめて知ったんだけど、長田区は全国でも有数のコリアタウンがありってあって、今のいままでそんなことは知らなかった。
あまり意識せずに暮らしていたんだなと思うと地元のことって案外わからないもんだったんだなと思う。たんに無邪気すぎたってことだったのかもしれないけど。
また住んでいたのが源平町という町名だったんだけど、あらためてネットで調べると同じ町内に朝鮮人飯場があってうんぬんとある。
そういえば何となく思い当たる場所があったんだけど、当時はまわりの大人たちはその地域に近づくのを避けていたような気がするし、話題にも登らせないようにしていたんだなと思う。
そう、ないものとして生活しているという感じだった。
しかしこの地域も歩いていて出会うひともあまりいないし、車もあまり通ってなくてあきらかに40年前よりも寂れたんだなと思う。
建物の多くがリフォームはしてメンテナンスしているけど昔のままの建物を活かしているものが目立つ。学校もそうだし当時ですら古臭く感じた生協の建物もほとんど変わることなく今もある。
おかげで久しぶりに来たものには変わっていないことの安心感というかがあるんだけど、このまま朽ちるまでこの風景が変わらないかと思うとちょっと心配になる。
上の写真は以前住んでいた家のすぐ裏で撮ったものなんだけど子どものころに夏休みの宿題で描いていた景色とほとんど変わってない。変わったところは介護施設の建物ができたくらいかと思う。 家の窓から見えていた小学校、中学校も建物はそのままで変化といえば外壁が塗り替えられたことくらいで当時毎年のように描いていたので案外よく覚えているんだけど大きな変化ってのはない。 東京の都心がちょっと異常なくらい景色が変わるだけで日本中でこの40年の変化ってそれくらいだよってことなのかもしれないと思うと新陳代謝が起こらなくなっていく街というのは寂れるしかないってことなんだと気づかされる。
子どもの頃の写真、たぶん5歳くらいの時に親が撮ってくれたものが残っていて家の前の道が土だったことを思い出させる。 それがいつしかアスファルトになり、下水管がとおってマンンホールが道にでき、交通量が増えたためにバイパスや有料道路になり、山だったところが宅地として開かれ家がたった。また野球をしていた広場にはマンションがたった。当時は何にしてもあわただしかったと思う。またどんどん変化することが自然だったけど、それがこうやって止まってしまうことが来るとは思ってもみなかったです。はい。
つづく。